八障連通信-412号

中西さんと、大西さんと、・・・のお話

ついでに近況なりとも・・・ノ四           元八障連代表 夛田 靖史

 お世話様です。お久しぶりの夛田です。
前回の原稿を確認したところでは昨年の12月になっていたので、10か月ぶりになります。
 早くも今年も残り2か月になりました。因みに、前回のテーマの歯の問題は、あの後、春先に上の歯を奥の1本を残してぐるっと抜いて、入れ歯を作りましたが、自分の障害状況ではそれを着けて生活するには負担の方がはるかに大きいので無しで生活を組み立てています。
ちょこちょこと生活上の支障もありますが、思っていたほどでもない気がしています。ただ、困ったことには外出時にマスクが外せなくなったことでしょうか。そこはやっぱり天下の色男としては・・・って、最近のネタです。

 近況はここまでとして本題に入りますが、先月は9月の初めに大西富夫さんが亡くなられたそうです。
もう知らない人がほとんどだと思いますが、八王子の精神障害当事者のレジェンドといえる方です。
最初にこの知らせを聞いて正直少し驚きました。というのは、半年ほど前に突然、何十年かぶりに我が家を訪ねて来て「実は就職が決まった」「いやいや、あんたもう64歳だよ」そんな会話をして見送りました。日野の介護事業所の事務の仕事だそうで、体調面も配慮してくれているということで、心配でしたが何とも嬉しそうでした。彼も長いトンネルを迷い続けていたので、気持ちはよくわかる気もしていました。
そんなことで、心に残っているところでの訃報でした。死因は熱中症だったそうです。今年の長く厳しい猛暑の犠牲者になってしまったようです。

“そういえば”の話ですが、大西さんが亡くなる半年ほど前に、ヒューマンケア協会の中西正司さんが亡くなり、そのさらに1年前には八障連の初代代表の渡辺啓二さんが亡くなっています。関係がないといえばそれまでですが、この3人の関係性を知る自分からすると、何か因縁めいて感じています。

ここからは中西さんを中心に話を進めますが、自分の拙い記憶を辿りながらなので、どこまで正確かについての責任は持ちかねます。ご容赦ください。
 もう40年以上も昔の話です。中西さんを八王子に連れて来て定着させたのは、他ならぬ渡辺さんでした。たまたま行った都内の病院で寝たきり状態にさせられていたと聞きました。
年齢が同じで障害原因が似ていることもあって、渡辺さんからすると「お前、こんなところで居たら駄目だ」とばかりに、半無理やりに連れてきたそうですが、後に中西さんに聞いた話では、20代の頭に交通事故で頸椎損傷の障害者になり、その後に人生の大きな失敗をして30代で病院のベッドに逆戻りをして、無年金で何もない状態で「人生もう終わったか…」と思っていたところへ渡辺さんが現れて、ある意味ラッキーにさえ感じていたそうです。

そこからは、渡辺さんと当時の取り巻きで住まい探しから始め、1980年代で安いボロアパートがまだ多くあったので、その一軒を借りて住まわせ、家具はタダ同然のバザー品をかき集め、生活費は市役所と交渉して生活保護を取らせて、とにかく生活全般は渡辺さんが面倒を見ていたと記憶しています。その中には渡辺さんの持ち出しもかなりあったようにも聞きました。
 様々な段取りを着けたところで、最後に残った難題は誰が日々の介助を担うかでした。当時は東京都の制度で脳性まひ者限定の介助費用の給付制度はありましたが、他の障害者は対象外でした。因みに、この制度は後に制度名の語尾に(等)を付けて対象の拡大が図られ、現在のヘルパー制度の基礎にもなっています。

この当時から地域で生活する要介助の重度障害者はいましたが、日常生活に必要な介助の手はほぼボランティアになってしまうので、その人材集めに神経と時間と労力を費やす人が多く、中西さんもその一人でした。実はそのボランティアで中西さんの介助を担う人たちの中に大西さんの姿がありました。

大西さんもまだ20代の前半で、職場を辞めたばかりということもあり、他の人たちが学生で不安定なのも重なって、次第に大西さんに頼るウエートが多くなり、何時しか体調を崩し心療内科へ通い始めたと渡辺さんから聞きました。
ただ、ここで間違えてはいけないのは中西さんに問題があったわけではないと思います。
精神障害の発症原因は突発的なものではなく、幼少期の原体験や育つ環境が起因して何かのきっかけで発症に至る場合がほとんどで、後々になって大西さんもその因子を持った一人で、大きなストレスが掛かると体調に問題が出ることを自分も解かりました。
中西さんの方は先ずは大西さんの体調を気遣いローテーションから外して、体制を作り直して行く中で、今のままでは当事者にも介助者にも負担が大き過ぎると思ったのか、それまでは得もすると自己中心的な考えに片寄りがちに感じていましたが、そこからは仲間のため・社会のための活動へと、大きく軌道修正していったように自分には感じられます。

だいぶ後になってからですが、本人の口から「彼には悪い事をしたから、命懸けで世の中ひっくり返さなきゃ申し訳が立たないだろ」と、ぼそぼそっと聞かされた時には一瞬空耳かと思いましたが、やはり相当なショックだったんだろうと思います。

その後の中西さんの活動と功績については知る人ぞ知るところで、スペースもないのでここでは端折りますが、間違いがないのは今の障害者自立支援制度の大本を作ってきた一人であり、その牽引車の役を担って来た人でした。

自力で車いすも動かせない身体で、車を乗りこなし全国を駆け回り仲間を作り、年に何回となく世界を飛び回りして、障害当事者の生活の向上に全身全霊をかけてきた中西さんの活動の原点が渡辺さん・大西さんとの出会いにあり、その出会いがなかったら今の制度もまた違っていたのかもしれません。

そしてその3人が互いを看取る様に生涯を終えて逝った。これもひとつの縁と感じてしまうのは、ただ横目に見ていただけの自分の妄想なのでしょうか…。

 最後に、先に旅立たれたお三方のご冥福をお祈りしつつ、自分はもう少しジタバタと世に憚ってみるつもりです。またの機会に、ぜひお付き合い下さい。よろしくです。

2025年10月20日 記