連載コラム Vol.72 『誰のバリアもフリーに』

八障連代表 杉浦 貢
私が、養護学校(現:特別支援学校)の高等部を卒業し、社会に出始めた1990年代初頭の頃というのは…それまで、一部の大規模駅、一部の高利率路線のみに限られていたエレベーター、エスカレーターの設置、建物施設のバリアフリー化、誰でもトイレの設置、バス車両のノンステップ化などの動きが、広く多くの地域に及び…それ以前まではスルーされてきた中小規模の駅やバス停などが整備改善されていくという流れの、その過渡期に当たる時期でありました。
バス、鉄道などの各交通事業者は…時代ととも緩やかに変化しつつあるとは言えど、まだまだ『大量の乗客を、遅延なく時間通りに運ぶ』ということに躍起になっていた過渡期の最中でありました。
個別の乗客に対する対応…中でも移動に困難を抱えた障害者などへの対応は二の次、三の次にされるありさまでした。
たとえば、私のような車いす利用者への接遇対応などは、職員の通常業務には含まれず、あくまで個々の職員の『善意』や『厚意』によって提供されるもの…とされていました。
つまり…駅員さんやバスの運転士さんは、毎日、大勢のお客さんを相手にしなきゃいけないから、とても忙しいんだけど、どうにか間が空いたら、車いすのお客にも対応するから、我慢して待ってて欲しい。
…というようなスタンスだったのでした。
また、駅施設にエレベーター、エスカレーターを新設する際には…『大半の乗客は階段のみの利用で間に合っている。一部の乗客(車いす、歩行困難者)のためだけに駅施設を改修する余裕はない』という見解を、交通事業者は当たり前のように述べておりました。
今日の私が高らかに《やはりそうなったぞ!》と快哉を叫びたいのは…
『交通機関の設備改善、サービスの改善は一部の客に向けた物』『一部の客のみに手間をかけるのは資金と時間の無駄』と私たちに言ってきた人たちに対して…です。
本当に、世の中の交通機関…バリアフリーの様子は、30年前や20年前に、障害当事者の諸先輩方が言っていた通りになりました。
つまり…『バリアフリーは障害者だけのもので無くなる。どの人にとってのパリアもフリーになる』ということです。
便利なものはみんなが使いたいはず。便利なものはみんなが使っているじゃないか。ある環境が不便や不自由のある状態で止まっているのは、決してその状態で満ち足りているのではない。不便で不自由な状態しか選べないような、貧しい状態だからである。
快適性や利便性を求めるのは障害者のみに限らない。楽をしたい、怠けたい心は誰の中にもある自然なもの。バリアフリーだとか、ユニバーサルだとかを考える時、いつも私はそう思うのです。

ところが、そこから時が経って、令和の御世となってみれば…駅施設のエレベーター、エスカレーターは、移動困難者だけでなく、誰でもが使うものとなり、駅員、バス運転士などが 、まずどのような利用者に対しても『おもてなし』の気持ちで顧客に接することが当たり前になっておりました。
まー、これはあまり愚痴っぽい語りにはしたくないのですが…駅などで、たくさんの人が一度にエレベーターを使うために、車いすの私がなかなかエレベーターを使えなかったり、パッと見に普通のトイレで用が足りそうに見える人が、当たり前に《誰でもトイレ》を使っていたりすることも、もはや日常になっているわけです。
なにも私は、そうしたお客さんそれぞれに文句が言いたい訳ではないのです。外出に際して困り事があるなら…便利な設備、便利なサービスはどんどん使ってくれればいいし、便利なものは誰が使っても構わないと思うのです。
今日の私が高らかに《やはりそうなったぞ!》と快哉を叫びたいのは…
『交通機関の設備改善、サービスの改善は一部の客に向けた物』『一部の客のみに手間をかけるのは資金と時間の無駄』と私たちに言ってきた人たちに対して…です。
本当に、世の中の交通機関…バリアフリーの様子は、30年前や20年前に、障害当事者の諸先輩方が言っていた通りになりました。
つまり…『バリアフリーは障害者だけのもので無くなる。どの人にとってのパリアもフリーになる』ということです。
便利なものはみんなが使いたいはず。便利なものはみんなが使っているじゃないか。ある環境が不便や不自由のある状態で止まっているのは、決してその状態で満ち足りているのではない。不便で不自由な状態しか選べないような、貧しい状態だからである。
快適性や利便性を求めるのは障害者のみに限らない。楽をしたい、怠けたい心は誰の中にもある自然なもの。バリアフリーだとか、ユニバーサルだとかを考える時、いつも私はそう思うのです。

