【連載コラム B 型肝炎闘病記 パオ 小濵 義久 闘病史 その 80】
そう言えば、12 月にスキーに誘われていた。
スキーシーズンには 3 泊 4 日の温泉つきツアーを 2 回、近場の 1 泊 2 日や日帰りを 3~4 回、5 年くらい前から有志を募って行っていると言う。こいつならスキーをやりそうだと思って声を掛けて下さったようだ。
穂高に別荘を持っている知り合いのところに、2001年の冬に家族で泊めてもらって一緒にスキーをしたのが最後のスキーだった。その後スキー仲間も見つからず、スキーへの情熱も冷め、道具は不要品の整理を始めた時に捨ててしまったが、ウェアーだけは残っていた。
近場の日帰りや一泊なら、40~50 歳代の女性が参加することもあるようだが、遠くまでの 3 泊、4 泊のスキー旅行となると家を空けにくいとのことで、男性ばかりとなるようだった。平均年齢は 70 歳代半ば、何と 70 歳から始めた人もいるというからびっくり。誘われると行きたくなるのも私の悪い癖であり、この機会を逃すともう一生スキーをする機会はないだろうと考えると寂しくもあった。
話を傍で聞いていた人が道具はリサイクルショップでたくさん売っているよと場所も教えてくれ、行ってくればと言われるままにリサイクルショップに着いた時にはもうすっかり道具を買うつもりでいた。若い頃も中年時代も正月はスキー場で過ごしていたくらい好きではあったのだが、独学のため上級者への壁が厚くもうワンランク上手になれないまま、周りに仲間がいなかったこともあって、沙汰止みになっていた。
癌の手術が分かった時に、1 月の末から予定していた八幡平のスキーツアーはキャンセルして下さっていたが、経過が良好なので再度申し込みをしてもらい、14 年振りのスキー旅行に行くことにした。
東北新幹線の車内は空いており、6 人掛けの椅子を向かい合わせにして、すぐに宴会が始まった。8 人の内飲めないのは 1 人だけで、他の人は酒豪ぞろいだった。みなさん、荷物の中に重い酒瓶を抱えて来ていたのにはびっくりした。一升瓶は瞬く間になくなり、720ml の地酒や焼酎が空けられていく様に呆然とした。手術後間もなくでもあり、私はなるべく控えようとしていただいたが、3 合近くは飲んでしまった。晩の宴会が心配になった。
昔行っていたスキーツアーと言えば、修学旅行で行ような安っぽい宿で、料理もお腹を満たせれば良いといった程度のものが殆どだった。今回の旅行は八幡平フリーツアー3 泊 4 日というもので新幹線代を含み、39,800 円だったか。盛岡駅から 1 時間余かかるが、ホテル側がバスを出してくれる無料送迎つき。だから、全く期待していなかったのだが、ホテルに着くと一般的なスキー宿といった感じは全くなく、部屋に入るととても広く豪勢な感じがした。仲間に勧められてインターネットで買い求めたオールインワンのスキーケースを紐解き、スキー道具を所定の場所へ運んだ。若い頃はスキー道具を抱えて電車で出かけたが、スキー道具を抱えての移動が結構大変だった。だから、家族で行くようになった時はすべて自家用車での移動しか考えず、知り合いの別荘を利用させてもらえる時しか行かなかった。だから、今回は道具をそろえることの他に、移動が大変だなとすぐに思ったのだが、オールインワンケースに道具を入れ、宅急便で送るのだと教えてもらった時にはびっくりした。いやはや便利になったものだ。
普段着に着替え、明日のスキーウェアを整え、早速風呂に向かった。八幡平にははじめて来たのだが、露天風呂がとても広く、おしゃれな感じで、雪景色を見ながらの入浴は格別だった。1 日目は中華、2 日目が和食、3 日目が洋食と料理にも工夫があり、美味しい部類だった。安すぎると言えるとてもお得な旅行であり、温泉旅行だけでも充分楽しめる素晴らしさがあった。誘いに乗って大正解だった。
夜の宴会は、一番酒の強い人の部屋にそれぞれが持って来たお酒を持ち寄った。新幹線の中でも持ち出していたのに、まだ荷物の中には酒瓶が入っていたのだ。「恐れ入谷の鬼子母神」である。夜更けて部屋を去る時に、各種酒瓶がずらっと並んでいる姿に唖然、呆然、自失。
